震災前年の年末、保育園が年末年始の休園時に子連れ出勤した際のオフィス
2011年3月11日の東日本大震災からちょうど10年。
被災をされた全ての方に黙祷を捧げます。
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震災当日、私も夫もそれぞれの都内の職場にいました。私がいたビルもかなりの揺れで、安全を確認しながら階段を駆け下り外に飛び出しました。
汐留の巨大なオフィスビルが、ゆっくりと揺れていました。銀座の中央通りはヘルメットをかぶった人であふれていました。
当時3歳だった息子は、自宅のある市内の小規模保育園にいました。
【息子がどうなっているか分からない。】
保育園にいくら電話をかけても通じない。生きている心地がしない6時間程度、頭がおかしくなりそうでした。
夜になって、市内の友人と連絡がとれ「うちで預かってるよ。」と。その時の安堵感は忘れられません。
不安な夜を過ごし、翌日の明け方に夫と合流して友人宅に向かいました。
再会した息子の笑顔と、昇る朝日のまぶしさ、迎え入れてくれた友人の部屋の暖かさが忘れられません。
家族3人で友人宅から自宅に近づくにつれ、道路のコンクリートは波打っていて、液状化による砂煙で前が見えないほどのまさに惨状。
映画を観ているかのような光景でした。
【これからどうなるんだろう?】
徹夜明けの状態で、自宅に戻った時の絶望感も忘れられません。恐怖で震えが止まりませんでした。
水道、下水道、ガス、計画停電、全てのライフラインが遮断された被災生活が待っていました。
同じ状況の保育園も休園。息子を置いて出勤できるはずもなく。給水車に水を運びに行きました。
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東日本大震災は、私が企業を離れ、独立することになったきっかけです。
息子3歳、母親の私も3歳。
まだ母親として未熟だったので、息子と橋を3本隔てた場所で過ごす毎日が怖くなったことが一つ。
もう一つは、家庭環境、夫婦のチームワークもまだ未熟でした。
身を寄せた私の実家から、夫は何ごともなかったように毎日出勤。
私は、何とか在宅で仕事をしていましたが、後に出社できなかった責任を問われることになりました。
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当時は、私も「夫は仕事、私は生活と子どもを守る」ということが自然でした。
内心では、私も何とか出勤できないかと思ってはいたものの、夫に「自分も仕事に行きたい」とは言いませんでした。
1日でもいいから「息子をみてようか?」って言ってくれないかなぁ?と思っていたものです。
しかし、仕事よりも子どもと一緒にいたい。自らそう思ったことも事実だったと思います。
今では、息子も含めて、お互いのやりたいことや大切なことを、家族3人でサポートする家族になっています。
私だけが無理していることは全くありません。
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この日、ニュースなどで見聞きしてきた大きな自然災害は、私にとって自分ごとになりました。
10年経って、14時46分に黙祷をしながら、息子を案じた不安や、安堵感や絶望感がよみがえってきて、涙がポロポロこぼれてきました。
自分が体験した感情は、時間が経っても忘れないものなんだなと驚いています。
震災をきっかけに独立をしましたが、「やめさせられた」とか、会社を恨む気持ちは全くなく、後悔もしていません。
自分で選んだ選択だということと、今の生活を心から気に入っているからだと思います。
毎年3月11日は、元気な息子と夫と、当たり前の生活ができることに感謝する日になっています。
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有事の時に、家族のカタチは問われると思います。
コロナ禍の今、なんで私ばっかり?と思ったり、夫や子育てにモヤモヤすることがあれば、ぜひお話を聴かせていただきたいです。
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両立キャリアスクール 田頭あやこ